宮地嶽神社 神兎

宮地嶽神社の光の道と神兎(福岡県福津市)


宮地嶽神社 光の道海へと続く『光の道』。
福岡の宮地嶽神社で毎年限られた日だけに見ることができる景色です。立ち寄ってみると、こちらでも神兎が隊列をなして波を越えていました。

ちなみに、この写真は神社のポスター。美しい「光の道」が一直線に夕陽まで伸びています。2016年JALが嵐を起用したCMを放送し、この景色を紹介すると、一気に全国的な認知度が高まりました。それ以前からも福岡では人気のある神社だったようです。

場所は博多から北へ20kmほど来た福津という町。山の向こうには宗像大社があり、また先日掲載した波折神社(こちら)もすぐ近くです。

宮地嶽神社 参道鳥居

参道の門前町手前の鳥居です。それにしても、すみません、扁額の文字などを見ていても、どうしても「地獄」と見えてしまって強そう怖そうなイメージが。「嶽」は「岳」の旧字体で、峻険な山の意味。神が住まう山の文字としてはぴったりで、そこに「宮地」という、これまた清々しい地名が合わさったのに、「宮地嶽」。地名の面白さ。※ちなみにこの周辺の住所はなぜか「宮司」です。面白い・・。

そして、名前とは関係なく、門前町は優しいのどかな雰囲気です。

宮地嶽神社 松ヶ枝餅

門前町に多くあるのが「松ヶ枝餅」のお店です。太宰府天満宮では、祭神の菅原道真にちなんだ「梅」の紋をあしらった「梅ヶ枝餅」が有名ですが、こちらは「松」。宮地岳神社の神紋が「三階松」であることからこの呼び名になっているようです。

宮地嶽神社 松ヶ枝餅

普通の白い餅と、よもぎの緑の餅などがあります。中には餡こ。通常の饅頭とは違い、表面を鉄板で焼き、比較的平らな薄い形なので、カリモチの食感と熱い餡こがのバランスが絶妙です。「三階松」の焼印が押されているのですが、ちょっと見にくいですね。CMでは嵐も食べていました。

宮地嶽神社 鳥居

階段手前までやってきました。ここからちょっと登ります。

宮地嶽神社 参道 階段

そこまで長い階段ではないですが、ひいこらと。

そして登りきって、振り返ると・・・

宮地嶽神社 日中の光の道

この景色!
階段から参道、そして海へと続く道がまっすぐ。光の道が見られるのは、この延長に太陽が沈む2月と10月の限られた時期。でも、それ以外の時期の日中に見ても、これは絶景ですね。道の先にあるのは玄界灘。その先にかかっている島は、相島という小さな島です。

嵐のCM以来、光の道が見られる時期こちらの参道は“プラチナチケット”になるようです。機会あったら見てみたいですね。

現在の本殿は、ここから参道が左に折れたところにあるため、光の道の直線からは位置も方向もずれています。ただこの直線の延長上には「元御本殿跡」の石碑がたっていますので、かつては本殿からこの絶景が見えていたと思われます。この「光の道」が、狙って作られたかということでいうと・・・直線の先にある、相島は海人族“阿曇族”の島であり、古墳群があるらしいです。相島が中心から少しずれているのは気になりながら、「光の道」のタイミングに、2月は「ぜんざい祭」10月は「ツクシ(筑紫)神舞(かんまい)」があるらしい・・。この景色が見られる時に合わせて独特な祭祀・・むむ・・狙って作られているのか・・? とても気になります。

宮地嶽神社 境内 参道

さて、参道は階段の上で左に折れます。参道の左右には、日本一級の大太鼓と大鈴が奉納されています。

宮地嶽神社 楼門

その先には立派な楼門。

宮地嶽神社 拝殿

門をくぐると拝殿があります。こちらの注連縄は“日本一”の大きさとのこと。出雲大社にも日本一はありましたが・・あれは拝殿ではないので・・・。

宮地嶽神社 拝殿 内部

拝殿をのぞきますと「宮地嶽三柱大神」とあります。現在の由緒書によれば、御祭神は、

祭神 息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)別名:神功皇后
勝村大神(かつむらのおおかみ)
勝頼大神(かつよりのおおかみ)

とあります。やはり福岡といえば神功皇后です。うんうん。

ご創建は、約1700年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。 古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。

(宮地嶽神社HPより)

つまり神功皇后がこの地で神を祀った後、新羅を攻め、勝って帰った後に、神功皇后と従者を神として祀ったと述べられています・・

・・・が、話はそう簡単ではありませんでした。

もう少し古めの縁起によると、

祭神 多紀理毘売命、狭依毘売命、勝村神、多紀都比売命、息長足比売命、勝頼神
由緒 創立年月日不詳、本社縁起曰宮地嶽大明神阿部相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神藤助麿、云々。伝説に往昔神功皇后新羅を征し給ふ時、宮地嶽の山上にて宗像三柱大神を招神鎮祭あらせられ祈請し給ひて遂に新羅に勝ち還御ありしに依つて宗像三柱大神を奉斎し給ひ、後に神功皇后を御同座に祀ることゝなれりと云ふ。又勝村勝頼両神は三韓征伐に随行せられて常に先頭を承はり勝鬨を挙げられたり、帰還後此の地の祖神と祀らる。

『福岡県神社誌』(昭和19年)

と、昭和初期の祭神は「多紀理毘売命、狭依毘売命、多紀都比売命」の宗像三女神が入っており、さらに、社伝としては「阿部相丞、藤高麿(勝村神)、藤助麿(勝頼神)」が祭神であると記載しています。『筑前國續風土記拾遺(元禄元年,1688年)』にも『中殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿』とあるらしいです(こちらより)

社伝にありながら、途中で消えてしまった「阿部相丞」または「阿部亟相」とは誰なのか。そして、なぜ消えてしまったのか。

明治時期には祭神が激変しました。一つには神仏分離により、仏教的な神仏を神道的なものに変更した場合。例えば、祇園信仰において牛頭天王をスサノオへ変更したり、北辰信仰において妙見菩薩を天之御中主神へ変えたりなどです。またより政治的・宗教的背景があって、祭神として相応しくないとされ、積極的に外される場合もありました。例えば、東京の神田明神における平将門の排除。これは江戸期には祀られていた将門が、明治になって“朝敵”を祀るのはいかがかということになり、当時の教部省が氏子の反対を押し切り変更してしまった例です。

後者でいうと、この地域の“朝敵”というと「筑紫君磐井」が浮かびます。6世紀に大和朝廷が半島へ出兵しようとした際に、これに反抗した「磐井の乱」起こしました。ただ、これは記紀すなわち朝廷側からの書き方であり、逆からみた『筑後国風土記』には官軍が急に襲撃してきたと書かれているらしい。結果は大和朝廷側の勝利となり、子である筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋の屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられています。

宮地嶽神社 古墳 出土品実は、宮地嶽神社の裏手には、古墳があります。宮地嶽古墳といい、国内最大旧の巨大な石の横穴式石室と多くの豪華な副葬品が発見され、「地下の正倉院」とも呼ばれています。宮地嶽古墳が属する津屋崎古墳群は、古代の海上交通を担った豪族である胸形氏(宗像氏)の墓であるとされ、その最大級の宮地嶽古墳は胸形君徳善が有力視されている、らしい。胸形君徳善は日本書紀に登場し、「次納胸形君徳善女尼子娘、生高市皇子命」つまり、徳善の娘、尼子娘が天武天皇に嫁ぎ、高市皇子を生んだという内容です。非常にヤマト王権と胸形氏との結びつきは強いです。

ただ、これまた、神社側の主張が全く異なっており、古墳前の案内板によると、

 古墳内部からは三百数十点余りの宝物が出土、瑠璃(ガラス)壺や黄金の鐙、黄金の天冠、特大金銅装頭椎大刀等、特に豪華絢爛な20点が国宝の指定をうけています。この様な所から地下の正倉院とも称され、同時代の奈良・飛鳥の石舞台の主である蘇我馬子公の墳墓よりも規模が大きい事から、ここ北部九州一帯を治めた埋葬者の絶大なる権力を垣間見る事が出来ます。
 宮地嶽の眼下には玄界灘の島々が見渡せ、白砂青松の海岸には日本一奇麗な夕陽が沈みます。「相ノ島」はそこに位置しています。この相ノ島こそ、海人族・阿曇の聖地です。そして宮地嶽古墳の巨石は、この相ノ島から切り出された玄武岩ですし、相ノ島の積石古墳と同質の石です。
 阿曇の祖は磯良公と申され芸能の祖とも言われています。その末裔には磐井の戦で名を馳せた「つくしの磐井」が居ます。そして宮地嶽古墳には阿曇の人々に繋がる九州王朝の長が祀られています。そんな「つくしの磐井」に繋がる「つくし舞」明治初年頃まではこの古墳内部で舞われていましたが長らく途絶え、昭和五十八年に当社にて再興・伝承されています。

(古墳前案内板より)

「安曇磯良」が出てきました。阿曇氏は古代にかなり力を持った海人族。さらにここで“朝敵”「磐井」へと話をつなげています。磐井が阿曇族であるという根拠なのですが、どうやら先述の磐井の乱の際に、子の葛子が差し出している「糟屋の屯倉(福岡県糟屋郡)」は阿曇氏の土地だったらしい(※出典未確認)。

安曇磯良について『太平記』にも記載があります。神功皇后が新羅を攻めるときに諸神を招く中で、海底に住んでいる阿部磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いので現れなった。その際住吉神は、海中に舞台を構えて、磯良が好む舞を待って誘い出した。その際に、磯良は竜宮から潮を操る霊力を持つ「潮盈珠」「潮乾珠」を借りて、皇后に献上し、そのお陰で皇后は勝利を得たらしいのです。そしてこの『太平記』では、阿度部磯良(あとべのいそら)と呼ばれています。
ん?「あとべ」・・「あべ」・・。
そして、舞・・?10月に舞われるという「つくし神舞」?

宮地嶽神社 つくし神舞実際10月に奉納される「つくし神舞」においては、一番最後に、こちらの宮司のみに伝わる「浮神」が舞われます。これは海の神としての安曇磯良を題材にしたものであるとのこと。

「阿部」と言って思い出すのが、飛鳥時代に東北の蝦夷を平定した「阿部比羅夫」。海戦に長けた彼は、実は662年の百済救済の出兵である「白村江の戦い」にも参加しています。そして同時に白村江の戦いに加わったと伝わっているのが「安曇比羅夫」。「安曇」と「阿部」がかなり近く感じます。

とすると、宮地嶽神社で祀られていたのは、やはり古墳の被葬者である「安曇氏の“王”」ではないでしょうか。ここであえて“王”と表現するのは、石室の大きさと副葬品の豪華さ。また、磐井の墓として伝わる岩戸山古墳(福岡県八女市)も非常に巨大であり、大和朝廷と渡り合えるほどの力を持っていたと考えられるからです。
安曇氏の祭祀の中心と言われるのが志賀島ですが、こちらで「漢委奴國王」の金印が見つかったのも「王」と呼べるほどの氏族であったからなのかもしれません(※ちゃんと年代とか調べてないけど)「九州王朝」という言葉も浮かんできます。

江戸〜明治にかけてなのかもしれませんが、より記紀に沿った祭神を(当然、記紀はヤマト朝廷寄りに編まれています)、ということで、縁のあった神功皇后へと変更をし住吉の神を祀り、一方、地元で信奉されていた安曇氏のことは古墳の奥宮へ隠してしまったように思えます。

【メモ1】
ちなみに島根の石見神楽の演目に「塵輪(じんりん)」というものがあって、第14代天皇・帯中津日子(たらしなかつひこ)=仲哀天皇の話です。異国より日本に攻め来る数万騎の軍勢を迎え撃つ中、塵輪という、身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する悪鬼がいると聞き、天の鹿児弓(あまかごゆみ)、天の羽々矢(あまはばや)を持って高麻呂を従え討伐に向かい、激戦の末に退治します。この「高麻呂」こそ、宮地嶽神社に祀られている藤高麿(勝村神)ではないかと。
仲哀天皇の皇后が神功皇后。仲哀天皇は「神」の言葉に背いて、新羅ではなく熊襲を攻めようとした結果、亡くなってしまいます。なんか、裏にありそうな気が・・・。
【メモ2】
光の道の先にある相島(あいのしま)なのですが、どうやら相島は「あへ」の島などと書かれていたこともあるらしく、つまり「阿部」と直接つながる可能性も出てきました。光の道の直線上には、特殊な石積の古墳もあるらしい。さらに面白いのは、島にある神社の祭神が神功皇后でも安曇磯良でもなく、神武天皇の祖母・母である豊玉姫と玉依姫であること。海彦山彦に近い伝承も伝わっているらしいです。これは行ってみなければ・・(猫がたくさんいる猫の島でもあるらしいですし)

さて・・

宮地嶽神社 楼門 後ろから

神兎研活動に戻りましょう。拝殿から振り返って、左右の楼門を見ますと・・

宮地嶽神社 石灯籠

石灯籠の基壇に・・

宮地嶽神社 灯籠 基壇

波兎様を発見! 下段は鳥など、上段が獅子、そして中段が全て波兎です。
時代的には明治は越えないと思いますが(年代見忘れた)、とすると神功皇后とのリンクが少しあるのかもしれません。神功皇后といえば、住吉神社の縁日が「卯」であるため、兎の像が奉納されていたりします。

また、海を渡るという意味でも、波を軽やかに進む兎はぴったりなのかもしれません。ほとんどの兎は背筋と脚をしっかりと伸ばし、美しい飛び込みのようなポーズをしています。スピード感ありますね。

全6面ありますので、全部激写させていただきました。

まずは拝殿に向かって左側・・

宮地嶽神社 灯籠 神兎

アニメのコマ送りみたいですね。①まっすぐ潜り進む→②しっかり潜り進む→③ひたすら潜り進む→④ちょっと浮かんで→⑤まだまだ潜り進む→⑥息継ぎ、ぷはっ。という感じ。かわいい。

拝殿に向かって右の場合・・

宮地嶽神社 灯籠 神兎

①まっすぐ飛び込み→②ちょっと振り返ってみる→③いや、前に進むぞ→④どんどん進むぞ→⑤ちょっと後ろ気になるな→⑥いや進むのだ! という感じでしょうか。こちらは2回振り返ります(笑)

正直こちらでは神兎には出会えると思っていなかったので、海を渡る神社で象徴的な波兎に会えたのは収穫でした。

さてさて・・

宮地嶽神社 光の道

「光の道」の先はどうなっているのか、やはり気になります。

本殿と神兎様に別れを告げ、びゅーーーーんと飛んでみましょう。

宮地嶽神社 海岸 鳥居

到着!!

玄界灘に面した浜辺の境にも、鳥居が立っていました。こちらは「宮地浜海岸」と呼ばれています。
海の向こうには、安曇族の島である相島が見えています。少し島に近づきましたね。

宮地浜 夕日時計

日没の方向を解説した案内板がありました。ちょっと難しい。最近は便利なもので「日の出日の入時刻方角マップ」というようなサイトで調べることができるようです。光の道のタイミングを正確に知るのに役立ちます。

宮地嶽神社 海岸 鳥居

振り返ると、鳥居の向こう、はるか遠くに宮地嶽神社の階段が見えています。
なんとなく神社から見た「光の道」の景色は、山から海へ向かっていくイメージがありましたが、こうやって改めて鳥居の方向を確認すると、海側から神社へ向かったベクトルです。厳島神社や大洗磯前神社も同じですね。
船で海から人々は参拝するのでしょうし、神々も海からここを通って神社へと入っていくのかも知れません。

「つくし神舞」の舞踊が、『太平記』にあったように海から山へと神を導く舞であるような気がしてきます。

宮地浜

改めて玄界灘を眺めてみます。
この海の先には、朝鮮半島もあり、また日本中どこへでもつながっています。浮かぶ島々へは阿曇族を始め、海人達が古代から行き来していたことでしょう。そして、神々もどこかへ渡っていったり、こちらへ帰ってきたりしたに違いありません。

今回、九州の多層的な神々の歴史を垣間見た気がします。神兎を探しながら、もっと調べていきたいところです。

冒頭に紹介した嵐のCM、最後に子供たちが「こっち探検せん?」と走り出していくのをみながら、桜井くんが「大事だよな‥好奇心って‥」とつぶやきます。そう、好奇心、大事なのです。

博多 もつ鍋

ということで、博多まで戻りました。博多名物の「もつ鍋」! 圧倒的にうまいです。これはまた来なければ!

(参拝:2021年10月)


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