明太子〜〜〜〜♪
ということで、九州は福岡に来ております。
福岡の食といえば、博多ラーメン、もつ鍋、鉄鍋餃子、明太子などももちろんですが、「魚」がすごいと私は思います。特に白身の魚。的確な熟成を行って最大限の旨味を引き出して、甘めの九州の醤油で食べる刺身は格別。そしてこれらの魚を供給する豊かな海が、玄界灘です。
古代から大陸と日本をつなぐ海である玄界灘。この海を、人々が行き交うと同時に、神々も行き交っていました。
こちらは博多から北へ20kmほど来た福津市津屋崎にある波折神社です。玄界灘に面したのどかな漁師町・津屋崎の氏神様です。
鳥居をくぐった先は拝殿です。由緒書によると御祭神は・・
祭神 | 瀬織津大神(せおりつおおかみ) 住吉大神(すみよしおおかみ) 志賀大神(しかおおかみ) |
とのこと。「瀬織津大神」は「瀬織津姫」です。日本書紀・古事記には登場せず「大祓の祝詞」の中で登場する祓戸四神の一柱で祓い浄めの神。各地の神社から神名が消えた謎多き女神です。波折神社では「貴船神」「貴布祢明神」とも呼ばれているとのこと。
こちらが本殿。祭神については、また後ほど。
拝殿右手に入っていきますと・・
高い台座の上に、波の上を跳ねる神兎が!
重なる波頭が細かい細工で彫られています。その上を、ぐっと前を見て、腰を跳ね上げた神兎の躍動感。
残念ながら、顔の一部が欠けたのか、補修が入っていますが、強い眼差しは引き継がれているようです。
波濤は一方向ではなく、四方に重なり、荒れた海を思わせます。そこを軽々と飛び跳ねていく神兎。
後ろから。脇の下辺りの逆巻く波頭も美しく表現されていますね。
足の先が折れてしまっていますが・・ちょんと乗った尾が、躍動感を感じさせてくれます。
下の台座に彫られている文字を読むと
奉献
基本金寄付
一金五十円
慶応三年生
六十一紀念
昭和二丁卯年正月建之
とあります。つまり慶応3年(1867年)生まれの方々が、還暦(数えで61年)を祝って設置したようです。生まれの十干十二支が「丁卯ということで、「卯=兎」を奉じたと思われます。そこへこの神社の「波」のイメージを加えた、「波に兎」の意匠にしたのでしょう。
「波」に関しては、境内の縁起に書かれていました。
波折神社縁記
祭神:瀬織津大神・住吉大神・志賀大神の三座、縁起によれば神功皇后の新羅を遠征せられ凱陣し給いし時に、この三神当浦渡村鼓島に現われ給いしにより皇后この浦の岡分、川原崎の宮之本という地字に神垣を造りて斎祀せらる、昔この浦の漁夫三人沖に出て釣せしが大風荒波に遭い雷鳴さえも加わり海大いに震動す故に漁夫諸共にこの三神に救いを祈りし処、忽ち御姿を現し給い隆起する波穂の上に立ち給いて雲の如き波頭を御袖をあげて打ち払い給うと見えしが逆巻く荒波は見る間に治まりて遙かの沖に過ぎ、暫時海上静かとなりし故荒波を折って辛うじて舟は鼓島に漂着、風待ちすること三日飢え迫りし折柄再び先の3神現われ給い飲食を与え給う、これを食すと覚えが、忽ち人ここちつき力の限り波涛を凌ぎてこの浦に漕ぎ着けたり、初め三神の舟上に現われ給し跡に三箇の石あり棒持して帰り御神体として祭れり、これより波折大神と称し奉る。かくていにしえ彼の川原崎の宮之本に祭られしより時移り八十四代順徳天皇の承久三年(1221)此処に移し奉る。〜境内由緒書より〜
神功皇后が半島の新羅を攻めて帰ってきた折に、鼓島(つづみじま:近くの半島の先っぽの島)に瀬織津姫、住吉大神、志賀大神の3神が現れたため、宮之本というところ(神社より少し東の方)に神垣を作って祀ったのが始まりとのこと。古代九州の大女傑、神功皇后が関わってらっしゃいます。
時は移り、この村の漁師が漁をしていると嵐に遭ってしまいます。そこでこの三神に祈ると、波の上に現れ、荒波をあっという間に治めてしまいました。海が静かになったため「荒波を折って」かろうじて鼓島に漂着。そこで風向きを待つのですが飢えが今度は襲います。すると再び3神が現れ食べ物を与えてくれ、力を回復した漁師たちは、村に船を漕いで帰ることができました。そのときに船に現れたあとに3つの石があったため、それをご神体に「波折大神」として祀った、という伝承です。
「波を折る」というのは少し聞き慣れないですが、『筑前國續風土記附録』には注釈として、「浪花を折て(折とは凌といへる意なるへし。)」とありまして、「凌ぐ(しのぐ)」という感じらしいです。と、なんとなく引っかかっていたのは、「波折」と「瀬織」が似てません?ということなのですが、偶然かもですね。
何にしてもこの神兎像は、波折神社ならではの、荒海を難なく超えていく神兎の姿を表しているようです。海とともに生きるこの地の人たちの願いを感じます。
境内には「社日汐井」と書いた大きなシャコガイの器がいくつかありました。博多筥崎宮では、春と冬の暦に「社日」という節気があり、その日に、お潮井取り(お潮井汲み)と称して、浜の砂を持ち帰って、清めなどに使うようです。こちらもその風習に用いるのでしょうか。こちらも「海」をとても感じます。
そして、こちらの祭神は全て、海・水に関わる神々です。
と言いますか、3柱とも同じ水の神なのですが、通常だとあまり一緒に祀られることがない気がしております。以下簡単にまとめてみます。
瀬織津大神(せおりつおおかみ)
一般には「瀬織津姫」として知られており、先にも述べましたが、日本書紀・古事記には出てこない神様です。毎年行われる大祓(おおはらえ)において、罪や穢れを祓うための祝詞(のりと)である大祓詞(おおはらえのことば)の中に現れています。
高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ速川の瀬に坐す 瀬織津比売と云ふ神 大海原に持ち出でなむ此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比売(はやあきつひめ)と云ふ神 持ち加加呑みてむ此く加加呑みてば 氣吹戸に坐す氣吹戸主(いぶきどぬし)と云ふ神 根國 底國に氣吹き放ちてむ此く氣吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比売(はやさすらひめ)と云ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す
「(払い清められた罪は)、山の麓から流れる急流の瀬にいる「瀬織津姫」という神が大海原に持ち出し、荒海の潮が渦巻くところにいる「速秋津姫尊」が呑み、息吹の根源にいる「気吹戸主尊」が黄泉国に吹き放ち、黄泉の国の「速佐須良姫」が消しさってくれるだろう。」
と、つまり、罪が4柱の神により消されていくことを唱えています。
この4柱の神を「祓戸四神」と呼びまして、神社の参道の入り口などに比較的小さな社を構えていることが多いようです。
瀬織津姫は、その存在が隠されてしまった神であり、まさに「神秘」に包まれています。
理由は定かではありませんが、ヤマト王権とは対立する民の神であったのでないかと言われ、その存在は書き換えられてきました。これが明治になると、記紀に載らない神を避けたのか、さらに隠されてしまいました。
例えば、伊勢神宮の内宮の「荒祭宮」に祀られている「天照大神の荒御魂」が瀬織津姫であると言われています(鎌倉時代”外宮”の度会氏によって編まれた「倭姫命世記」などより)。またこの神社でも呼ばれていますが、貴船神社(貴布祢神社)の元の祭神が瀬織津姫とされたり、さらに高龗神・闇龗神などの竜神と言われている神も瀬織津姫とされることもあります。
「祓い」の神の文脈以外では、「水」への関わりが強く、それも「川」の場合が多いようです。
逆に言えば、この波折神社のように「海」の神であることは少なく、非常に興味深い神社です。
【メモ】 そのうち調べたいのですが、瀬織津姫が海に祀られている例は、九州では他にもあるようで、大分の闇無浜神社などは、波折神社と同様に河口・浜辺にあります。イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊を行って、「上の瀬は流れが早すぎる、下の瀬は流れがゆるやかすぎる」と、中の瀬でそそぎます。これはつまり川ですよね。ここで穢れの神である「八十禍津日神」(やそまがつひのかみ)「大禍津日神」(おおまがつひのかみ)を生みます。この禍津神が瀬織津姫とされることもあります。ちなみに、その後で、海の底に沈んで禊をすると、下記住吉大神や志賀大神が生まれます。 「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は、その後海に潜るので、大体海岸として考えられてはいるのですが、より川と海の近い所、ということであれば「河口」と言えなくもない。そういうつながりだったりしないかな、と。 |
住吉大神(すみよしおおかみ)
住吉大神は住吉三神とも呼ばれます。
『日本書紀』では底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)の三神とされます。イザナギが黄泉の国から帰ってきて、海で穢れを洗い清めた際に、「海の底」「海の中程」「海の表面」からそれぞれ生まれたされています。
また神功皇后との関わりが深いようです。新羅出兵の際に、皇后はその力で海を渡って新羅を降伏させたと伝わります。ですので、各地の住吉神社では、住吉三神と神功皇后を祀っています。ちなみに最初に神功皇后が住吉三神を祀ったのが、神功皇后摂政11年「辛卯年の卯月の上の卯日」だったため、住吉大社には兎が神使となっています(「住吉大社の兎の縁」をご覧ください)
波折神社は神功皇后と関わりが深い神社ですし、つながりが「海」ということもありますので、一番しっくりくる祭神です。
志賀大神(しかおおかみ)
志賀大神も三神からなり、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の3柱。『古事記』原文を引いてみると、
次於水底滌時、所成神名、底津綿津見神、次底筒之男命。於中滌時、所成神名、中津綿津見神、次中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿津見神、次上筒之男命。
此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。
とあり、先述の住吉大神と同じ形で生まれたと記されています。「わた(綿)」は「海」の意。「津」は「の」。「み(見)」は「神霊」的な意味合いを持ち、名前からして海の神です。
また古事記には、古代氏族である「安曇氏」の祖神であることも書かれています(一方、住吉三神については、どの氏族の祖神かについては明確な記載はありません)。安曇氏は、博多近くの砂州でつながった志賀島にある「志賀海神社」を守ってきました。志賀島は「漢委奴國王」の金印が発見されたように、海外と日本とを繋ぐ要衝です。安曇氏は海人集団と考えられ、王権と結びついて勢力を広げました。内陸の長野の「安曇野」にもその名前を残しています。神功皇后は新羅出兵の折りに志賀島へも立ち寄っているようです。
志賀大神と住吉大神は非常に似通った神であるため、不思議ではないのですが、通常であればどちらかを奉斎することになると思いますので、ご一緒しているというのが少し妙?といったところでしょうか。この地での3柱同士を結びつけた縁はなんだったのでしょう。
ちなみに、この“3柱型”で有名な神として、波折神社にも近い宗像大社の宗像三女神(田心姫神(沖津宮)・湍津姫神(中津宮)・市杵島姫神(辺津宮))があります。また、この地域に多い八幡神の中央に祀られる「比売神」も宗像三女神とされたりもしています。アマテラスとスサノオの誓い(うけい)の中、スサノオの剣をアマテラスが噛み砕いて生まれたと言われる神々で、古くから祀られてきました。また、宗像大社へも神功皇后は参り霊験を得ているとのこと。
もともとは同じ神々で、奉斎する海人族によって、分かれていったと考える方が自然かもしれません。
神社近くの海岸に出てみました。
玄界灘が広がっています。多くの恵みをもたらすと同時に、多くの災厄ももたらす海。穢れも含め全てを飲み込んでくれる包容力を持っています。そして、海の向こうに渡るものもいれば、渡ってくるものがいる。日本が始まってからずっと神と人の出会いと別れを繰り返した結果、この波折神社はあるような気がします。
とか、考えながら、玄界灘を眺められる近くのお寿司屋さん「海の彩」へ立ち寄りました。海の恵みたっぷり。
福岡の神々、またお参りに来たいと思います。
(参詣:2021年11月)