熊本 兎谷川

兎谷の金山彦神社(熊本県熊本市)


熊本です。熊本城の石垣を崩壊させ、各地に大きな被害を出した熊本地震から2年半。城の修復は続いており、被災地の復興はまだまだです。ですが、出会った熊本の人たちは明るいし、強い。逆に私のほうが背中を押される気もしました。

熊本市内 修復中の熊本城

熊本から元気を頂きつつ、さて、ネットを検索すると「兎谷」という地名があるのを発見。どうやら神社もあるのですが、詳細は不明です。これは行かねばなりますまい。

熊本中心部から5kmほど北へ移動します。住所としては熊本市北区になります。

熊本 兎谷

車で少し走って、兎谷の入り口に到着。ちょっと迷いました。左右に高台があり、確かに谷。

熊本 兎谷神社 地図

地図で地形を確認しますと、こちらは立田山と呼ばれる山の北端にあたり、東から西へ谷が刻まれています。

熊本 兎谷 兎谷川

谷を流れる川が「兎谷うさぎだに川」です。それほど水量は多くないようです。現在は住宅地となっていますが、緩やかな山と川は、かつて、まさに「♪兎追いし かの山♪ 小鮒釣りし かの川♪」という感じだったかもしれません。

兎谷川 兎谷川

細い道を川沿いに上流に向かいます。探検感高まります。たったかたー♪

熊本 兎谷 金山彦神社前 道路

しばらく登っていきますと住宅はなくなり、林に入ります。その右手に・・

兎谷金山彦神社 入り口

目指す兎谷の神社がありました。ちょっと、、寂れてるかな、、、。

兎谷 金山彦神社 鳥居

階段を上ると、いい感じに古びた明神鳥居。木々が茂り、少しひんやりした空気が流れています。

兎谷金山彦神社 神額

神額には『金山彦神社』とあります。

兎谷金山彦神社 境内

鳥居をくぐり左手が境内となります。壁のない拝殿、奥に本殿。・・・やはりちょっと寂れております。

兎谷金山彦神社 手水舎

脇には素朴な手水舎がありました。自然石の上で、高めの脚を備えてた石造りの手水鉢。水は引かれていないのか、タンクで補充する形になっていますね。

金山彦神社 兎谷神社 手ぬぐい

手ぬぐいが何枚かかかっていたのですが・・・その中に「兎谷神社」と書かれているものを発見しました。神兎研としては、こんな部分でも“やったぜ”と少し満たされます。

もう少し何か無いでしょうか・・・? 探索を続けます。

兎谷金山彦神社 拝殿

拝殿です。壁が無いのはなんでなのでしょうね。神楽殿のように、外から神事が見られるようにするためでしょうか。屋根には落ち葉が積もり、草が生えて、少し瓦がとれてしまっています。地方の鄙の神社はどこも大変ですね。

兎谷金山彦神社 鬼瓦

鬼瓦に兎があれば良いなと思いましたが、こちらは雲でしょうか。あるいは波。軒丸瓦なども見ましたが神紋も見つけられません。残念。

兎谷金山彦神社 案内

拝殿内に説明書きがありました。神社の名前は『兎谷金山彦神社』です。「兎」の文字を冠する神社です。

祭神 金山彦命(かなやまひこのみこと)
蔵王権現(ざおうごんげん)

伊耶那美命から成りませる 神で 鉱山・剣・銅鏡・鉾・鋤・鍬・など金属に間する事に霊力を発揮
今では金運隆昌・災難除けにご利益が在ると信仰を集めて居ます

『金山彦命』は、古事記では『金山毘古神』、日本書紀では『金山彦神』と記される神です。イザナミの神産みで、最後に炎の神カグツチを生んだ際に、火傷をして苦しむ中、その嘔吐物(たぐり)の中から生まれました(同時に、金山毘売神(かなやまびめのかみ)も生まれています)。

説明書きにもある通り、鉱山を始めとする鉱業、鍛冶の神として信仰されています。

ちなみにその後、苦しみの中で、大便から生まれたのが波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神(はにやすびこのかみ・はにやすびめのかみ)、尿から生まれたのが、彌都波能売神(みつはのめのかみ)と和久産巣日神(わくむすひのかみ)で、和久産巣日神(わくむすひのかみ)からは、伊勢神宮外宮に祀られる豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)が生まれています。古代であっても、現代であっても出産は大変なことです。

金峯山寺 蔵王権現『蔵王権現』とは、山岳仏教の仏であり神です。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の神仏で、奈良県吉野町の金峯山(きんぷせん)寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られています。火焔を伴った憤怒の相。“本地仏”として(仏の“本地仏”という言い方はおかしい気もしますが)、釈迦如来・千手観世音菩薩・弥勒菩薩が当てられ、それぞれ過去・現在・未来を表すとのことです。
ちなみに、東北の山・蔵王も修験道の山であり、この蔵王権現を祀っています。

一方、神道的には“本地神”は、金山彦神とされているようで、この社に祀られている『金山彦命』と『蔵王権現』は、一柱の神とも言えるようです。

兎谷金山彦神社 由緒書

拝殿の中には、武者絵らしきものが描かれており、そちらは絵は消えかかっているのですが、その上に由緒書がありました。

兎谷金山彦神社

祭神 金山彦神
祭日 十月十二日

神社の由来
今を去る三百四十七年前寛永九年(一六三二年)細川忠利候が肥後藩主として入国された。
当時は、兎谷、楡木、麻生田新地、黒石、花立等の地区は廣野(※廣は貝に廣?)であった。この地に士族を配置し禄を与え、軍用として防御(※御は御に示?)の任務を授けられたのが肥後国誌に記されている。
この地区に配置された方は七戸であった。その後、この地に移住される方も逐次増加して、現在では、五百余戸に達している。
今を去る三百六年前即ち寛文十三年九月(一六七二年)、現在の神社地に、正蔵法師玄海という人が飽託郡兎谷氏神として蔵王権現を祭祀された。
その後九十五年経過した明和四年(一七六八年)、今を去る二百一年前に祀堂が火災により消失した。しかし、その翌年、祀堂は再建された。
祭神金山彦神は何年頃より祭りしか不詳であるが、金峰山より勧請せしものと口伝がある。明和五年以降、権現さんと金山彦神が祀堂に同列に祭祀されたものと推察す。
明治元年三月二十八日、太政官布告「神仏分離令」の実施に伴い、金山彦神が表面に現れ氏神となられ、兎谷金山彦神社として祭られるようになった。しかし、現在は神殿に金山彦と権現が同列に祭祀されている。
明治十八年十月、前記二百十年前再建された祀堂、即ち、神殿と拝殿を移築して拝殿となし、元の神殿の後に新しい神殿と廊下を造り拝殿及び廊下を土瓦に変更して、近代的な神社の造りとなす。
昭和二十五年十月神殿の屋根麦稈をセメント瓦となし、廊下及拝殿を修理す。

付記
一、神社の現在地は、熊本市上立田字古閑山開弐五参弐、地積は、弐?弐セ弐四歩
二、神社は昭和二十年迄村社として祭られる
昭和五十四年一月吉日(一九七九年)記す

金山彦神も、蔵王権現のある金峯山から勧請されているということは、やはり2神は同神であるのかもしれません。また、兎谷の地名が、神社の建立以前からあったこともうかがえます。

兎谷金山彦神社 本殿

本殿です。

兎は・・・無いかなあ・・・

兎を探して、ぐるっと本殿を回っていますと・・・

兎谷 金山彦神社 ハチ

ひゃああああああああ!!

軒下に巨大なスズメバチの巣が!!!

離脱ーー!!!!

熊本 兎谷 上流

・・・はぁはぁ・・・。

そういえば、ということで、道を挟んで神社の反対側にある「兎谷川」へ降りてみることにします。「痴漢とまむしに注意」という看板に少し怯えながら、藪道を分け入ります。

熊本 兎谷 上流

竹林と藪の中に、少しずつ水を集める沢がありました。「兎谷」の源流です。野兎はいてもおかしくない雰囲気ですね。

まぁ「兎」の名を冠する神社を探訪できたということで、ここは収穫あったということにしときましょう。

「兎谷」の地名について

帰りまして、兎谷の地名について由来をネットで漁っていると、ひとつ発見しました。

平安時代の終わり頃、都に、源為朝(みなもとのためとも)という武将がおりました。小さい頃から大変な力持ちで、弓矢の名人でもありました。しかし、あまりにも乱暴者だったのでとうとう父の為美(ためよし)から九州に追いやられてしまいました。

最初は、豊後の国(大分県)にいましたが、やがて肥後(熊本県)に入り、阿蘇氏と結んで、阿蘇平四郎忠国の娘を妻にしました。そして、九州全体を従えようとして、九州の総大将鎮西八郎と名乗って各地をあばれてまわりました。

さて、ある日のことです。この鎮西八郎為朝が狩りに出てえものをさがしていますと、一羽のうさぎが走ってきました。為朝は「しめた!」とばかりに矢を使って「ヒューッ!」と射ましたが、どうしたことか名人為朝の矢がそれて、うさぎのそばにあった石にあたってしまいました。うさぎはおどろいて、一目散に立田山のふもとの谷まで逃げていきました。この谷を兎谷と言います。

話を聞いた村人たちは、「的をはずれた矢」という意味で、為朝が矢を射ったところを「ソヤ」(素矢)と呼ぶようになりました。それがいつの間にか「スヤ」と呼ばれるようになり、今の「須屋」(すや)になったということです。また、屋が当たった石は、矢じりにけずられてくぼみ、そこにたまった水をつけるといぼが治るといわれたものですが、いつのころにかくぼみは隠れてしまったそうです。(略)

(熊日菊池西部販売センター「ミニコミ.com」~須屋・黒石の歴史を探る~「地名「須屋」の由来」より(こちら))

源為朝おお!源為朝!
「高崎の兎神信仰と疱瘡神」(こちら)でも少し紹介しました、剛勇無双の平安時代の武将です。

巨体で暴れ者だった為朝は、九州に追放されるも、豊後(大分)から、一帯を制覇して「鎮西総追捕使」「鎮西八郎」を名乗りました。どうやら阿蘇神社の宮司の娘婿にもなり、一大勢力を築いていたようです。もちろん当時、菊池氏を始めとする有力豪族はいましたが、かなり手を焼いたに違いありません。

この先、保元の乱に参加して破れ、伊豆大島へ流されます。が、また大暴れし伊豆諸島を支配します。その際に生まれたのが、疱瘡神(天然痘)を島から追い出したという逸話です。

由来にある、矢が当たったくぼみの水をつけるとイボが治るというのは、為朝のご利益を感じさせますね。

そして「兎谷」。
為朝の九州の別の逸話では、830間(1.5km)先の獲物(神猪だったためそれも問題になったのだが)を射抜いたとあります。その為朝の矢を避けた兎、逃げたとありますが、実はかなり強いのではないでしょうか。比類なき素早さをもった兎。やはり神兎だったのかもしれません(若干妄想気味)。

そういえば、拝殿にあった消えかかった武者絵、ちゃんと写真を撮ってきていないのですが、ひょっとしたら為朝だったのかな? とすると兎がどこかにいたのかな?? ちょっと未調査案件が残ってしまいました。

藤崎八旛宮秋季例大祭

実は本日は「藤崎八旛宮秋季例大祭」の日なのです。通称「ボシタ祭り」。熊本市中心に鎮座する藤崎八旛宮のお祭りであり、熊本市最大の人出となります。

9月の敬老の日の前後で行われ、祭りの後半に行われる「神幸行列」が最大の見どころ。朝早くに藤崎宮を神輿が出発し、市内を巡りながら、熊本城近くの御旅所へ。そこからまた夕方に本宮へと戻ってきます。神輿に付き従うのが「随兵(ずいびょう)」と呼ばれる騎馬の武者や歩兵の行列。鉾や大兜。そして獅子舞。さらに「飾り馬」と呼ばれる馬と囃子衆が最後に連なります。

当初は「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる、殺生を戒め、供養のため捕らえられた生き物を放す儀式に由来しており、千年以上の歴史を持つものです。そこに、この地を治めた加藤清正の「随兵」が加わってみたり、「飾り馬」が激しくなってみたりと、変遷をたどり現在の形になったようです。

藤崎宮 鳥居

藤崎宮参道の鳥居です。ちょうど大兜が帰って来たところですね。

藤崎宮 例大祭

かなり長い参道があり、鳥居のところには鉾が帰ってきています。

藤崎宮 例大祭 山門

楼門には、先頭の神輿が到着していました。朝から一日中熊本市内を回ってきたということもあり、なんとなく皆さんお疲れで、ひと休憩という感じ。

藤崎宮 拝殿

境内の方は、外の祭りに人が出てしまっているということもあり、静かです。承平5年(935年)、朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願し、京都の石清水八幡宮から勧請しました。「八幡」の「幡」の字が、「旛」なのは、後奈良天皇の筆によるもの(天文11年(1542))。より豪華な「ハタ」です。

祭神は、一宮:應神天皇、二宮:住吉大神、三宮:神宮皇后。ちなみに、石清水八幡では二宮(西御前)は、比咩大神(ひめおおかみ)すなわち、宗像三女神とされていまして、同じ九州の宇佐八幡もこれは同じ(こちら)。宗像三女神が住吉三神になった理由はなにかあるのでしょうか。また配置が応神天皇が中央に来て、左右に住吉大神と神功皇后を配しているのが特徴的です。

さて、参道に戻ります。

藤崎宮 例大祭 飾り馬

両脇に屋台が立ち並ぶ参道の向こうから、「ドーカイ、ドーカイ!」という囃子とともに飾り馬がやってきます。

藤崎宮 例大祭 飾り馬

祭りの最後ということもあり、馬はかなり興奮気味。後ろから「ドーカイ、ドーカイ!!」の掛け声とラッパと鐘の音で追い立てます。スピーカーを使うので、かなり騒がしい。

藤崎宮 例大祭 飾り馬

異様な熱気の中、最初の馬が通り過ぎていきました。飾り馬は70組に及びます。

この「飾り馬」、元はお宮への奉納馬(絵馬の原型)だと思いますが、この追う形式の起源はよく分かっていないようです。当初の形は神職が乗った馬で、藤崎宮は現在の位置ではなく熊本城内にあったため、御旅所へは馬を曳いて歩いており、空いた鞍に装飾を施すようになったとされています。しめ縄の装飾は「陽陰(ひのかげ)」と呼ばれ、現在では男女の交わりを表したもの。子孫繁栄への祈りが込められているといいます。

掛け声の「ドーカイ、ドーカイ!!」は、少し前までは「ボシタ、ボシタ!!」と掛けられていたようです。この「ボシタ」の原意も不詳なのですが、「ボボした(熊本弁で、エッチした)」であったなどの説があります。この「ボシタ」が、秀吉の命を受けて加藤清正が行った朝鮮出兵の話と繋がり「(朝鮮を)ホロボシタ」という由来であるという話が出てきて、最近になって「ドーカイ(どうだい?)」に変更されたとのこと。ので、「ボシタ祭り」という名称も最近は避けられているようです。真偽はともかく、そういう意味で使っていた人もいたでしょうし、「ボボした」もなかなか今日日受け入れがたいので、変わるのもやむを得ないのでしょう。

ならば。それよりも気になるのは馬の扱い。もちろんその地に伝わる祭りについて、他所者が言うのは余計なお世話なのは重々分かっておりますが、1日中馬を囃し立てて街を引き回すのは、ちょっと見ていて辛いのです(実は朝も熊本城側で見てました)。かつては祭りの盛り上がりを求めて、馬を暴れさせようと、酒を飲ませたり蹴ったりしていたこともあったとか。

祭りの発祥が、動物の命の大切さを感じる「放生会」だという辺りが、よりモヤっと。
このモヤモヤは熊本の人にもあると聞きます。変わり続けてきた祭りでもあり、時代に合わせた「飾り馬」の模索が進むことを願っています。

さて、熊本といえば・・・

熊本 黒亭 熊本ラーメン
熊本ラーメン。老舗「黒亭」は、とんこつにマー油(焦がしにんにく)のスープ。卵は、生の黄身が定番とのことです。
東京に戻ってきても、たまに食べたくなるなぁ。

(参拝 2018年9月)


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